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	<title>ONLINEアナキズム</title>
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	<description>Website of Anarchism Zine in Tokyo</description>
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		<title>山本義隆著『福島の原発事故をめぐって』を読む</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/bookreview/939/</link>
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		<pubDate>Wed, 30 Nov 2011 06:50:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kubo</dc:creator>
				<category><![CDATA[書評]]></category>
		<category><![CDATA[原発]]></category>

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		<description><![CDATA[3.11の東日本大震災によって惹き起こされた福島第一原子力発電所の事故は、わたしたちに大きな衝撃を与えたと同時に、自らの立ち位置の曖昧さを露呈させる契機となったといっていい。安全神話などという幻想がもろくも崩れ、福島の住 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>3.11の東日本大震災によって惹き起こされた福島第一原子力発電所の事故は、わたしたちに大きな衝撃を与えたと同時に、自らの立ち位置の曖昧さを露呈させる契機となったといっていい。安全神話などという幻想がもろくも崩れ、福島の住民の人たちや土地に対して直接的な放射能汚染をさせた国家・政府、原子力学界や関連企業並びに電力会社の大罪は、徹底的に弾劾されるべきである。菅たちをはじめとした民主党の政権中枢は、原発輸出を決めておきながら、積極的に推進してきたのは、自民党政権だったと主張して、福島原発事故に対する責任を回避したいのだろうが、そうではない。菅の付け焼刃的な浜岡原発停止や脱原発依存宣言が無意味化していることの現状を考えれば、民主党政権も同罪だといえるし、権力システムの移行に過ぎない政権交代であるかぎり、民主党政権にも責任は継承されていることを自覚すべきなのだ。</p>
<p>わたしは、正直にいって原発そのものの存廃に、これまで喫緊の課題として想起していなかったという反省がある。八十年代に起きた反核運動が、あいも変わらない欺瞞的な平和運動の流れのひとつとして見做していたし、どこか胡散臭さしか感じられず、反核とともに、反原発を謳われても、納得することができなかったという思いがあったからだ。いまも、福島原発事故という「事実」のもとに、誰もが反原発・脱原発を主張していく時、ふと、八十年代に起きたかつての反核運動とオーバーラップしていく懸念を思わないではない。問題は、まず一人ひとりがどう思い、どう対峙していくかであって、運動の拡張を強引に、しかも拙速に指向していくことではない。もちろん、反原発・脱原発運動の拡がりを否定するものではないが、かつての反核運動では、両極端に分かれていた柄谷行人と大江健三郎が、期せずしてデモによって社会を変えていくんだという楽観的なアジテーションをしているのを見ると、腹立たしいものがある。かれらの煽動にのらずに、立ち位置をしっかり見据えたものでなければ、やがて運動自体の自壊が訪れるだろう。また、わたしがこれまで大きな影響を受け続けてきた吉本隆明が、高度な科学技術によって原発の安全性は保持できるといまだに楽観視していることも暗澹たる思いにさせる。吉本は、あいも変わらず、核廃棄物処理に対して負の視線を射し入れていないし、おそらく、原子力エネルギー開発を人類の知の達成だと、どこかで信じているとしか思えない。</p>
<p>在野の物理学者でもある山本義隆の『福島の原発事故をめぐって』は、「いくつか学び考えたこと」と副題にあるように、冷静にしかも丹念に原発導入の時間性を辿りながら、その負の位相を徹底的に解析している。そこには、どんな楽観的な視線も入り込む余地のない精緻な論及でありながらも、悲愴な感性を漂わせているわけではない。むしろ、淡々と現在という場所を照射して、「脱原発社会、脱原爆社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきであろう」（94P）と述べていく。</p>
<p>「一九五八年に原子力発電にむけてアクセルを踏んだのは、時の総理大臣で戦前に東条内閣のもとで商工相として戦時統制経済を指導した岸信介であり、彼は回顧録で語っている。</p>
<p>昭和三十三年［一九五八年］正月六日、私は茨城県東海村の原子力研究所を視察した。日本の原子力研究はまだ緒についた　　ばかりであったが、私は原子力の将来に非常な関心と期待を寄せていた。／原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用も共に可能である。どちらに用いるかは政策であり国会意志の問題である。（略）平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器を持たないが、［核兵器保有の］潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることが出来る。</p>
<p>つまりこの時点で原子力発電（原子炉建設）の真の狙いは、エネルギー需要に対処するというよりは、むしろ日本が核技術を有すること自体、すなわちその気になれば核兵器を作りだしうるという意味で核兵器の潜在的保有国に日本をすることに置かれていた。」（8～9P）</p>
<p>「平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる」とは、まさしく、根源的な核廃棄物処理を目指さず（不可能であることが、はじめから分かっていたというべきかもしれない）に、やがて核燃料再処理などというデマゴギーを喧伝しながら、プルトニウムを保持することによって、いつでも核開発できることを担保にした政策を推進していったことになる。つまりこれは、唯一の被爆国であり、非軍事条項を持つ憲法がありながら、それを国際政治の場で強力に発信することをはじめから放棄していたことを示している。だから、アメリカの核実験で被曝した第五福竜丸の事件の最中、原子力の平和利用などという方便を見せかけにして原発建設に向かったわが国の政権の愚かしさが、フクシマを生起させてしまったことに繋がっていったことを、時間性を含めた視線で明確に批判、否定していくことから、まず、始めていくべきなのだ。</p>
<p>「（略）原発は危険で厄介な『放射性廃棄物』を生みだし続け、それらは人間の生活圏から離れたところに厳重に貯蔵保管されなければならない。その意味で『廃棄物』という表現は不適切であるが、（略）貯蔵といっても人間の時間感覚からすれば事実上永久的ということになる。」（34P）「原子炉はきわめて大規模な構造物で、数多くのさまざまなサイズの溶接された配管や弁が付属し、それらの大部分が遠隔的に操作される複雑な構造を有している。（略）元技術者菊地洋一は、原発を『配管のおばけ』と表現し『原発内部はあまりにも多くの重い配管が複雑に配置され、しかも非常に不安定な支持機構しか持っていない』だけではなく、『本来想定して計算に組み込むべき要素、地震波と鉄骨の共振などが考慮されていないうえに、ミスがいくらでも入り込む余地がある』と記している。」（45P）</p>
<p>考えてみれば、福島原発事故後、次々と明るみに出てきたトラブルは、そもそも原発の安全神話とは机上の空論に過ぎなかったことがわかったことになる。また、わたしたちの多くは使用済燃料棒が、原子炉建屋内に冷却され続けながら置かれたていたことは、知らなかったと思う。この危険な廃棄物と運転中の原子炉との共存という奇妙な、そして信じられないような構造を持っていたことに唖然とさせられたといえる。どこが、科学技術の高度な達成といえるのだろうか、まったくもって、詐欺的行為が延々、原子力行政によってなされてきたことになる。</p>
<p>「近代社会、もっと限定すれば西欧近代社会の最大の発明品のひとつは科学技術だと思う。科学と技術ではない。客観的法則として表される科学理論の生産実践への意識的適用としての技術である。それを発明したがゆえに、西欧近代に生まれた文化が、現在では世界を席巻するに至っている。実際、今日では科学技術は個人の日常生活から国家間の国際政治にいたるまで、巨大な力を有している。」（59P）「原子力はまた、国家に大国としての力を与えるという幻想を生みだしたことで、国際政治においても人間のコントロールを受け入れない“怪物”を生みだしたと言えよう。」（90P）「私たちは古来、人類が有していた自然にたいする畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう。自然にはまず起こることのない核分裂の連鎖反応を人為的に出現させ、自然界にはほとんど存在しなかったプルトニウムのような猛毒物質を人間の手で作り出すようなことは、本来、人間のキャパシティーを超えることであり許されるべきではないことを、思い知るべきであろう。」（91P）</p>
<p>なぜ、わたしたちは、「力」を求めるのだろうか。しかも、その「力」は、「コントロールを受け入れない」ものであり、「人間のキャパシティーを超え」たものであるにもかかわらず、虚妄な「怪物（核）」を手に入れようとする。その愚かしさから早く覚醒し、怪物の力を解体していかなければならない。そして「科学技術は個人の日常生活から国家間の国際政治にいたるまで、巨大な力を有している」という現実を見据えながら、便利になった生活の位相を改めるとか、後戻りするといったことではなく、すくなくとも、現在の場所を、透徹した視線を射し込ませて、もう一度、再構築していくべく、未知の通路を開いていくべきなのである。</p>
<p>………………………………………………………………………………………………………………………………</p>
<p>みすず書房刊・１１．８．２５・Ｂ６判・１０８Ｐ・定価［本体１０００円＋税］</p>
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		<item>
		<title>第23回 コスモス忌のご案内</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/941/</link>
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		<pubDate>Tue, 18 Oct 2011 10:40:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kubo</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>
		<category><![CDATA[秋山清]]></category>

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		<description><![CDATA[今年もコスモス忌のご案内を差し上げる季節となりましたが、大震災・福島原発事故という事態を、3.11以後として送る日々が、いまだに続いています。このようなことにたいして秋山清さんなら、どんな思いを発せられるかと考えたりもし [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今年もコスモス忌のご案内を差し上げる季節となりましたが、大震災・福島原発事故という事態を、3.11以後として送る日々が、いまだに続いています。このようなことにたいして秋山清さんなら、どんな思いを発せられるかと考えたりもしております。</p>
<p>今年の講演は、詩人の佐々木幹郎さんです。高校時代の友人であり1967年10月8日の羽田闘争で亡くなった山崎博昭氏を追悼した第一詩集『死者の鞭』（70年刊）は、鮮烈な衝撃を与えるものでした。以後、詩人としてだけではなく、評論や紀行文でも大きな仕事されてきています。また、最近では、詩と音楽のコラボレーションに関わり、東京芸大出身者による音楽パフォーマンス集団『VOICE SPACE』を創設、シンガー・小室等さんとの共作など、多彩な活動をされています。震災の被災地支援活動も積極的になさっています。</p>
<p>今年の会場は築地の本願寺。前年までの会場が飲食できなくなりましたので移しました。本願寺は「（関東大）震災時に、築地本願寺も全焼しながら、酸鼻の被服廠跡へ僧侶たちは駆けつけて、死者供養と、生きのこりたちへの説教所、託児所もひらいた。さすがは大衆のただなかの浄土真宗。」（小沢信男「賛々語々17 震災忌」―『みすず』2011年9月号）です。</p>
<p>〇日時　2011年11月19日（土曜日）、13時～17時。<br />
〇場所　築地本願寺本堂内講堂<br />
東京都中央区築地3-15-1（TEL:03-3544-0551）</p>
<p>〇プログラム<br />
第一部　佐々木幹郎「秋山清の世界（仮題）」、13時～15時。<br />
第二部　懇親会　　　15時30分～17時。</p>
<p>〇会費　　3500円　第一部のみ参加の場合は500円<br />
☆受付は12時よりいたします。</p>
<p>□問合せ先　〒162-0801 東京都新宿区山吹町311  坂井事務所<br />
FAX:03-3260-4263</p>
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		<title>アナキズム 第14号</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/item/921/</link>
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		<pubDate>Wed, 14 Sep 2011 02:03:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アナキズム誌]]></category>
		<category><![CDATA[出版物]]></category>
		<category><![CDATA[エンリコ・マラテスタ]]></category>
		<category><![CDATA[テロル]]></category>
		<category><![CDATA[ナロードニキ]]></category>
		<category><![CDATA[ボブ・ブラック]]></category>
		<category><![CDATA[マレイ・ブクチン]]></category>
		<category><![CDATA[ヨハン・モスト]]></category>
		<category><![CDATA[ラヴァショル]]></category>
		<category><![CDATA[宮崎滔天]]></category>
		<category><![CDATA[永山則夫]]></category>

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		<description><![CDATA[『アナキズム』誌編集委員会 編 ISBN: 978-4-9902478-9-8 A5判並製・190p 2011年9月11日発行 《特集》テロル 巻頭言　特集「テロル」によせて（津村　 洋） 9.11以後のアポリア──〈国 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="loopimg">
	<a href="http://anarchism.sanpal.co.jp/item/921/"><img width="71" height="100" src="http://anarchism.sanpal.co.jp/wp-content/uploads/2011/09/anarchism014-107x150.jpg" class="attachment-100x100" alt="ANA-14" title="アナキズム 第14号" /></a>
	</div>
	<div class="loopexp">
		<div class="field"><p>『アナキズム』誌編集委員会 編<br />
ISBN: 978-4-9902478-9-8<br />
A5判並製・190p<br />
2011年9月11日発行</p>
<h4>《特集》テロル</h4>
<ul>
<li>巻頭言　特集「テロル」によせて（津村　 洋）</li>
<li>9.11以後のアポリア──〈国家〉と〈テロ〉の断層（ 久保　隆）</li>
<li>テロリズム雑感（川田　功）</li>
<li>ナロードニキとテロル（高橋幸彦）</li>
<li>叙景──黒く塗り潰された「われわれ」のための（小林坩堝）</li>
<li>われは知る パレスチナのかなしき怒りを（志賀直輝）</li>
<li>宣伝としての行動（ヨハン・モスト／森川莫人訳）</li>
<li>革命的「性急さ」（エンリコ・マラテスタ／森川莫人訳）</li>
<li>社会関係を爆破することはできない……でも、やってみると楽しいかも！（ボブ・ブラック）</li>
<li>“革命犯罪”としての大逆万歳！　奴隷根性を正す文体革命を訴える（前田年昭）</li>
<li>ラヴァショルの禁じられた抗弁（ラヴァショル）</li>
<li>写真　大地の念（解説：白仁成昭）</li>
</ul>
<p><span id="more-921"></span></p>
<ul>
<li>追悼　近藤千浪（皆川　勤／松本　勲／noiz／中家篤志／吉田けい子／高野慎三／森川莫人）</li>
<li>反権力コメンタール<br />
震災以後の皇室による慰問に抗議して（上平　学）<br />
反原発デモで逮捕されて（大麦ジョージ／大麦ロコモコ）</li>
<li>みぎあしとひだりあし　共同的自律の困難さについて（まつもと　いさお）</li>
<li>書評　無縁・無縁性・無政府──伊藤正敏氏の著作に寄せて（森川莫人</li>
<li>書評　伊林洛平著『光州　五月の記憶』（津村　洋）</li>
<li>ミミズの詩──一九九七年夏、死刑囚・永山則夫へ（織田　忍）</li>
<li>宮崎滔天の「世界革命」〈後編〉（鹿島拾市）</li>
<li>スペインのアナキスト（九・前編）──英雄的歳月一八六八年〜一九三六年（マレイ・ブクチン／森川莫人訳）</li>
</ul>
<p>関連リンク</p>
<ul>
<li><a href="http://www.linelabo.com/han/hanhanroku.htm" target="_blank">繙蟠録II（前田年昭のブログ）</a></li>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/kaxima/20110929" target="_blank">宮崎滔天の「世界革命」（備忘と思考）</a></li>
</ul>
</div>
	</div>
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		<item>
		<title>エスペラントとアナキズム</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/909/</link>
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		<pubDate>Mon, 22 Aug 2011 02:51:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[翻訳]]></category>
		<category><![CDATA[エスペラント]]></category>

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		<description><![CDATA[［この文章はWill Firthによって書かれたLexikon der Anarchie, Verlag Schwarzer Nachtschatten, Plön, 1998, ISBN 3-89041-014-6の記 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="background:#f3f3f3; padding:1em">［この文章はWill Firthによって書かれたLexikon der Anarchie, Verlag Schwarzer Nachtschatten, Plön, 1998, ISBN 3-89041-014-6の記事の拡張版である。元の版はまた、1999年にMaldekstra Forumo Berlinoによって、“Esperanto und das internationale Sprachproblem”という小冊子のシリーズの1冊として発行されている。］</p>
<p>Ⅰ．定義</p>
<p>　国際的な言語エスペラントは、国際的な意志の疎通のために考案され創造された計画言語である。およそ1000種もの計画言語構想が知られているなかで、エスペラントのみが100年以上にわたって実際に使われ、有用性をもつことを証明されてきた。<br />
　1887年7月、若いユダヤ人の眼科医のラツァルス・ルトヴィヒ・ザメンホフ（Lazarus Ludwig ZAMENHOF）（1859-1917年）は、国際的な言語のための練習問題のついた最初の教科書をワルシャワで発行した。疑い深い帝政主義者たちが検閲の目を光らせているなかで、彼は“エスペラント博士（Dr Esperanto）”という筆名を用いた。この本はロシア語で発行されたが、続けて、その同じ年のうちにポーランド語版、フランス語版、そしてドイツ語版も出された。ザメンホフの“国際的な言語”においては、エスペラントとは“希望する者”という意味である。ザメンホフは国際的な言語を創造することによって、諸民族の国際的な意志の疎通と、世界の平和をもたらすために貢献したいと希望していた。エスペラントという単語は、すぐに言語自体の名称となった。<br />
　エスペラントは規則的であり融通性があるので、学ぶのが相対的に易しい。その正書法は音素的である。すなわち、文字と発音との間に一対一の対応関係がある。語のつづり方は規則的である。文法規則にはほとんど例外がない；広い用途をもつ接頭辞と接尾辞があって、高い精度と表現力を言語に与えている。語彙の大部分は、多くの言語の間に普及しているロマンス語とゲルマン語の語幹に基づく。人はエスペラントが話されているのを聞いたとき、普通、イタリア語かスペイン語のように聞こえるという印象をもつ。語彙がヨーロッパに起源をもつことから、たとえば、ドイツ語を話す人々にとってはエスペラントは難しくなくても、中国の人々にとっては難しいということは確かである。けれども中国の人々は、エスペラントはかなり易しいと、少なくとも英語よりはずっと易しいとみとめる。その理由は、広範な用法のもととなる合成語や派生語にある。変化することのない語の要素が語幹に付加されるから、意味をたやすく決定できるのである。この“膠着”という性質はまた、たとえばテュルク諸語にみられる単語形成上の特長である。それに対してドイツ語は屈曲語に属しており、語幹は不変ではない（たとえばHaus＝Häuser｛「家」の単数形と複数形｝；schreiben＝schrieb｛「書く」の不定詞と過去形の語幹｝のように）。<br />
　今日、エスペラントを話す人々の相互にゆるくつながった共同体には、最大で100万人のメンバーがいる。エスペラントの本（大部分はオリジナルの文学作品）が何万冊もあり、概して小さな定期刊行物が数百点あり、その多くは世界的規模で流通している。エスペラントによる専門家の組織の会合、会議、若者の集会、セミナー、休暇週間といった国際的な集まりがおこなわれない日はほとんどない。地域的な集まりも世界中でおこなわれている。また、いくつかのラジオ局はエスペラントの番組を放送しており、そのなかには一日単位での放送さえある。エスペラントはときには、異なる出自をもつカップルのための日常的な“家族言語”となり、その子どもたちはネイティブ言語として（居住する国の言語とともに、そして場合によってはほかの言語とともに）エスペラントを話す。エスペラントはそれが話される共同体の変化する要求に応じて発展していき、それに順応する。ほかの生きた言語のおのおのが、またそうであるように――語彙の借用と、存在している言語の資源による概念形成の両方をとおして――その相対的な平易さは失うことなく。というのも、概念の区別と表現力は、歴史的起源や言語に内在する要素によって左右されるのではなく、もっぱら、それが話される共同体のコミュニケーション上の要求に基づいて生じるからである。<br />
　エスペラントについて言及するときには、“補助言語”あるいは“人工言語”といった概念がしばしば使われる。エスペラントが実用的な使い物になっている実際の範囲になじみのない人々に対して、これらの概念はときに誤った考えをもたらす。その言語は原始的であり貧弱であるはずで、その総体は、その“創造者”の知的な能力によって決定され、そしてそれはおそらく、ある一冊の本の二つの表紙の間におさまっているというのである。けれども、エスペラントを話す人々のほとんどはつねに、言語は集団的／コレクティブな過程をとおしてのみ、人間的な存在の全ての伝達上の要求に適するように発展できるということに気づいていた。エスペラントはたとえば、ハイチ・クレオール語と同じく、“何もないところから生じた”というわけではない。言語はそれが必要とされたときに、その必要に応じて出現する。</p>
<p><span id="more-909"></span>Ⅱ．思想の歴史的展開</p>
<p>１．一般論</p>
<p>　意志の疎通のための言語としてのエスペラントとともに、ザメンホフはエスペラントの擬似宗教的な“人類人主義／ホマラニスモ”[近似訳：隣人愛、そして人類愛]を宣伝した。このかなり普及した概念は、リベラルでヒューマニスティックな考えに基づいている。それはたとえば、全ての人間は“家族”であり、再びその道を見つけなければならないという考え、全ての“世界宗教”は共通の起源をもち、お互いに調和に至ることができるという考えである。エスペラントを話す人々のいくらかはこれに興味を引かれ、違う方法でそれを解釈したが、他方で、エスペラントを話す多くの人々は、“人類愛”というザメンホフ的な流儀にはあまり動かされなかっただろう。<br />
　1887年にワルシャワで言語の計画が発表されたあと、はじめは主にロシア帝国のなかで、エスペラントは非常に急速に広がった。新しい言語による最初の文学作品の一つ（ザメンホフ自身の旺盛な文学活動や翻訳活動と並んで）に、ニコライ・ボロフコ（Nikolaj Borowko）が1892年に書いた墓穴のなかで（En la tombo）がある。生きたまま埋葬された者の苦痛を描いたものである。キリスト教徒でアナキストのレオ・トルストイ（Leo Tolstoj）は、エスペラントに賛成すると明確に述べている。1895年、唯一のエスペラントの雑誌に載せられたトルストイによる記事が、帝政主義者の検閲にひっかかり、雑誌が禁止されるに至ったとき、この“ロシアの時代”は突然に終わった。それに続くのは“フランスの時代”であり、1905年、最初の国際的なエスペラント会議がブローニュ＝シュル＝メール（Boulogne-sur-Mer）で開かれた（20の国々から688人が参加した）。その場でザメンホフは、運動の推進力としての地位から公式に退いた：これ以後、言語の発展は、エスペラント運動それ自身によって決定されることになった。<br />
　1905年、アナキストのポール・ベルトゥロ（Paul Berthelot）は、今日もなお出版されているエスペラントの月刊誌を創刊した。1908 年、ヘクター・ホドラー（Hector Hodler）は世界エスペラント協会（Universala Esperanto-Asocio）[UEA]を設立したが、それは今日まで、世界のたいていのエスペラント組織の活動を結合させている。UEAの本部はロッテルダムに置かれている。<br />
　第一次世界大戦までに、フランスではエスペラントの支持者が数多く生み出されていた。そこからそれは世界に、とくに日本と中国に広がっていくことができた。1921年には、エスペラントを使う運動で、解放の目的と非国民的／非民族的な構造をもつものが、ウジェーヌ・アダム（ランティ）（Eugène Adam（Lanti））の提案にしたがってプラハに設立された：国民性なき全世界協会（Sennacieca Asocio Tutmonda）[SAT]である。それは言語の社会的＝文化的な基盤を広げるのに、大きく貢献してきた。SATの本部はパリに置かれている。（Ⅱ．２．“エスペラントとアナキズム”も見ること。）<br />
　新たなエスペラントの開花期は、さまざまな国々で条件に応じて、10年ないし15年にわたって続いた：“ハンガリーの決まり文句”も断言されて、ブダペストを数年の間“エスペラントの文化的首都”[1]とした。しかし全体主義と軍事主義者の政権が優位に立ち、第二次世界大戦とさらには冷戦がもたらされるなかで、新たな躍進は何十年間にもわたって封じられた。戦後にはとくに、アングロ＝アメリカの言語と文化の拡張主義がその頂点に達し、その結果として、エスペラントはあまり注目を集めなかった。<br />
　1954年にはじめて、そして1985年に再び、ユネスコ（UNESCO）の総会で、国際的な知的交流のためのエスペラントの価値が承認された。1993年7月には、国際ペンクラブ世界大会がエスペラント・ペン・センター（エスペラントを使う作家たち）をメンバー組織として受け入れた。つまり、文学の言語としてエスペラントを認めたわけである。<br />
　エスペラントの全世界的な普及は平衡を欠いていた。最近の数年間の発展にもかかわらず、それはアフリカとアジアの多くの国々ではかろうじて存在するにすぎない。エスペラントを話す人々の大多数はヨーロッパに住んでいる。この事実のおかげで、エスペラントが“ヨーロッパ中心的”になっているかどうかは、エスペラント運動の内部でかなり頻繁に議論される主題である。しかし、エスペラントのもつ真に国際的な性格のために、それを純粋にヨーロッパのものであるとみなすことはできない。いくつかの国々（中国、イラン、トーゴ、コンゴ――かつてのザイール）での発展は、ときには驚くべきものになっているが、一方でほかの国々では今なお、組織されたエスペラント運動は全く見いだすことができない。<br />
　エスペラント運動の内部でとくに積極的な役割を演じているのは、UEAの若者組織のTEJO｛Tutmonda Esperantista Junulara Organizo｝である。それは世界エスペラント協会UEAと同じように、年次大会とほかの数多くの集会を組織している（ドイツの若者のエスペラント組織が年末年始に開く“国際セミナー”は、とくに言及する価値がある）。<br />
　今日のエスペラントの発展傾向の一つは“ラウミスモ（raŭmismo）”（1980年にTEJOの大会が開かれたフィンランドの都市、ラウマ（Rauma）から名づけられた）である。“ラウミスモ”ではエスペラントを話す人々を、一種の“ディアスポラの／離散した民族集団”と見て、エスペラントをとおして文化的価値（たとえば文学）を創造するよう努力している。それは普遍的な第二言語としてのエスペラントが、全世界的に受け入れられるようにするための“ラディカル”な努力に別れを告げ、かわりに、それを多くの言語の一つとみなす。人は必要に応じて、世界観に基づく野心をもたずにそれを使用することができる。<br />
　エスペラントの発展はある委員会、いわゆるエスペラントのアカデミー｛Akademio de Esperanto｝によって注視されている。アカデミーの任務は、ザメンホフが作成した基礎であるフンダメント（Fundamento）と一致する形で、言語がさらに発展するように配慮することである。アカデミーの決定は拘束性をもたず、むしろ、よく考慮された勧告の力を備えた方針のようなものである。実際にはアカデミーは、しばしばエスペラントの発展に遅れをとるし、内部の意見の相違のために、その時点で全員一致の勧告を出せないこともかなりある。<br />
　ときどきエスペラントは、性差別主義的だとして異議を申し立てられる。なぜなら――表面的な分析によれば――全ての女性形は男性形から導き出されるからである。一見したところ、このことはいくらかは真実であるように見える。というのもエスペラントでは、人間を表す語の女性形は、実際にいつも、基本形に-in-を追加することによって形成されるからである。たとえば、laborist-in-o ＝女性の労働者というように。とはいえ、エスペラントがドイツ語と根本的に異なるのは、文法的な性をもたないということである。自然の性をもたない全ての単語（たとえば椅子、壁、車）は、また文法的な性ももたない。言語の基本的な構造は性差別主義的ではないにもかかわらず、ある家父長制の社会では、エスペラントの実際の言語使用は、全く性差別主義的なものになるということにも注意しなければならない。男性の人間を表す語を形成することは現実に可能であるが、これはまれにしか使用されない。基本形はたいてい男性を表すと見られているからである；このことから、全ての女性形は（見かけ上は）男性形から導き出されるという、（根本的には間違っているが実際には正しい）批判点までは近い。言語の性差別主義を取り除くために、エスペラントにおいてもまたドイツ語においても、言語をより意識的に使うことが重要である!</p>
<p>２．エスペラントとアナキズム</p>
<p>　エスペラントを普及させた先駆者たちのなかにはアナキストたちがいた。1905年、ストックホルムで最初のアナキストのエスペラント・グループが設立された。ほかの多くのグループがそれに続いた：ブルガリアで、中国で、そしてほかの国々で。アナキストたちとアナルコ・サンディカリストたちは、第一次世界大戦の前には、プロレタリアのエスペランティストたちのなかで数的に最大の集団であり、1906年には国際的な協会である平和＝自由（Paco-Libereco）をつくった。それは『国際社会評論』（Internacia Socia Revuo）を発行した。平和＝自由は1910年に、べつの進歩的な協会であるエスペランティストの労働者群（Esperantista Laboristaro）と統合された。共同の組織は解放の星（Liberiga Stelo）と呼ばれた。1914年までにこれらの組織は、エスペラントによる革命的な文学作品を大量に出版したが、そのなかにはまたアナキストのものがあった。そして第一次世界大戦の前の時期には、たとえば、ヨーロッパと日本のアナキストたちの間で、活発な文通がおこなわれるようになったのである。1907年、アムステルダムで開かれた国際的なアナキストの大会で、国際的な言語の問題についての決議がおこなわれ、それから何年かの間、同じような大会で決議がおこなわれることになった。これらの大会に参加したエスペランティストたちは、とくにアナキストたちを国際的に結びつけることに従事した。ドイツではエスペラントは、とりわけ1920年から1933年にかけての時期に、労働運動のなかで広く使用された。1932年8月には、ドイツ労働者エスペラント連盟（deutsche Arbeiter Esperanto-Bund）｛Germana Laborista Esperanto-Asocio（GLEA）｝には4千人のメンバーがいた――そしてまた、エスペラントが愛情をこめて“労働者のラテン語”と呼ばれたのも、理由のないことではなかった。労働者エスペラント運動は多方面にわたる国際交流を生み出した：“労働者エスペランティストはまた、たいていは当時の政党の、文化的な、そして社会的な政治的運動に属していた。その任務は国際的な言語であるエスペラントを、国際的な範囲で、しかるべき協会の目的のために役立たせることにあるとみられていた（……）。労働者オリンピックの際にエスペラントは、異なる言語を話す諸民族の意志の疎通の手段として、重要な役割を果たした。その上さらにエスペラントは、たとえば労働者体操スポーツ連盟、労働者サマリア人連盟（……）そのほか多数の、労働運動のなかであらゆる政治的な、そして労働組合的な傾向をもつ文化的団体のために役立てられた”。『図解労働者エスペラント運動の歴史』（Illustrierte Geschichte der Arbeiter-Esperanto-Bewegung）、66ページ。<br />
　1921年8月には、15の国々から79人の労働者たちがプラハに集まった。彼らはすでに言及したSAT、今日でもなお活動的な反国民／反民族主義的な左派の組織を設立した。SATの活動は、1929年から1930年の時期に頂点に達した。当時は42の国々に6,524人の会員がいたが、1997年には会員は1,500人より少なかった。SATの設立と、その初期におけるブルジョワ的なエスペラント運動からの一貫した隔絶は、その時代の全般的な政治的発展の結果だった。それはまた、当時のブルジョワ的なエスペラント運動での、政治的中立主義の教条的な適用によってうながされたのだった。<br />
　1925年3月には“アナルコ・サンディカリスト・エスペランティスト・ベルリン・グループ（Berliner Gruppe anarcho-syndikalistischer Esperantisten）”が、アムステルダムで開催されていた国際労働者協会（IAA）｛英語の名称はInternational Workers’ Association（IWA）｝の第2回大会に挨拶した。グループはまた、IAAのドイツのセクションであるFAUDの戦列では、エスペラントは“すでにこのように足場を固めており、エスペランティストの世界組織を今、自由主義的＝反権威主義的な基盤の上に形成している”と話した。これはおそらく、T.L.E.S.[近似訳：全世界無国家エスペランティスト連盟]｛La Tutmonda Ligo de Esperantistaj Senŝtatanoj｝のことをほのめかしているとみられる。それは20年代に設立されたが、そのときSATは、初期には共産主義者の強い影響のもとにあった。どうやらT.L.E.S.は、のちにSATに吸収されたようである。<br />
　労働者エスペラント運動はドイツとソヴィエト連邦でとくに強力だった。とりわけ1923年には、ソヴィエトのウクライナで“国際的な言語の科学的アナキスト図書館”（I.S.A.B）｛Internacia Scienca Anarkiisma Biblioteko de la Internacia Lingvo｝が設立された。クロポトキンの『倫理学』、ボロヴォイ（Borowoj）の『アナキズム』、そしてほかの諸作品が、国際的な広がりをもつエスペラントでの読者のために出版された。この時代のアナキストのエスペランティストたちは、その活動をとりわけ極東で、中国および日本で繰り広げた。これらの国々ではアナキストたちのもとで、エスペラントは非常に早く大衆的な事柄となった。ほぼ2言語併用の雑誌がいくつか出版された。1913年から中国では、リウ・シーフー（Liu Shifu）｛師復／「劉」という姓は廃した｝（あだ名：Sifo）がLa Voĉo de l’Popolo[『人民の声』]｛中国語の誌名は『民聲』｝という雑誌を発行した。それはそもそも中国で最初のアナキストの雑誌だった。はじめはその中国語の部分の情報は、主に上で言及した『国際社会評論』からとられていた。リウ・シーフーは1915年にはもう死んだ。日本の最初のエスペランティストたちのなかにもまた、多くのアナキストたちと社会主義者たちがいた。彼らは繰り返し迫害にさらされた。1931年に『アナキスト』（La Anarkiisto）｛?｝という雑誌は、その編集部員が刑務所に入るとともに発行されなくなった。アナキストのエスペランティストたちは、ソヴィエトのエスペランティストたちへの1937年の迫害（Ⅱ．３．“弾圧”を見ること）の際に、多くのアナキストのエスペランティストたちが殺害されたり収容所へと追放されたりもしたとき、著しい弱体化を経験した。スペイン内戦（1936-39年）の間の国際旅団では、エスペラントは控え目な役割を演じた。1936年から1939年にはバルセロナで、I.L.E.S.（Ibera Ligo de Esperantistaj Anarkiistoj）｛イベリア・エスペランティスト・アナキスト連盟｝を通して、CNT／FAI｛Confederación Nacional del Trabajo（労働全国連合）／Federación Anarquista Ibérica（イベリア・アナキスト連盟）｝の週刊の情報公報が発行されていた。CNT／FAIのラジオ放送局は、エスペラントでの放送をおこなってもいた。<br />
　第二次世界大戦後、最初に組織的な仕事を始めたのはパリのグループだった。1946年から、それは『無国家人』（Senŝtatano）という定期刊行物を発行した。後年にもパリには活発なアナキスト・グループが生まれた。1981年、その主導のもとにラジオ・エスペラント（Radio Esperanto）が設立されることになった。それは今日でも自由ラジオ（Radio Libertaire）の周波数で、週ごとに1時間放送されている。リバタリアンの、そしてアナキストのエスペランティストたちはたいてい、そののちにSATのもとに組織されている。それらのアナキストの会員たちは、そこでいわゆる“フラクション”を形成して自律的に行動している。彼らは1969年に、『自由人の広報』（Liberecana Bulteno）を発行しはじめた。それは今日では、『自由人のきずな』（Liberecana Ligilo）という名前になっている。</p>
<p>３．弾圧</p>
<p>　エスペラントの歴史のなかには、妨害や誹謗中傷に加えて禁止や迫害もみられる。エスペラントはさまざまな政権から、“危険な言語”（まさにこの表題のついた作品は大いに推薦できるものであり、文献案内のなかにある）｛Lins, Ulrich, Die gefährliche Sprache, Gerlingen: Bleicher Verlag, 1988, ISBN 3-88350-023-2／ウルリッヒ・リンス著、栗栖継訳『危険な言語　迫害のなかのエスペラント』岩波書店、1975年｝とみなされた：1895年にはすでに、『エスペランティスト』（La Esperantisto）という雑誌の帝政ロシアへの輸入が禁止された；1922年、フランスの学校でのエスペラントの授業が禁止された；1935年、ドイツでエスペラントの授業（いわゆる“自由な学校”での任意選択科目）が禁止された；1936年、ドイツとポルトガルでエスペラントが禁止された；30年代の半ばからは、SATの出版物、それにアナキストの著作物は、もはやソヴィエト連邦のなかに入らなかった。スターリニストの弾圧の勢いがますます激しくなると、かつて強かったソヴィエトのエスペラント運動はますます制限された。1937年には素早い行動が起こされ、活動的なエスペランティストたちの多くは逮捕され、射殺されるか刑事収容所に送られた。エスペラントはそれ以後、“ブルジョワ的な国際主義とコスモポリタニズムの産物”として、社会的に追放され厳しく禁止された；1938年からは、ドイツに占領されて“故国に復帰”した全ての地域で、エスペラントは禁止された。<br />
　これらの禁止と迫害のために、エスペラント運動とそれによる国際的な言語の普及と発展は、相当大きく妨げられ抑制された。第二次世界大戦後、1945年の新たな始まりもまた、滑らかには進展していかなかった。スターリンの影響のもとで、1949年にドイツ民主共和国（旧東ドイツ）でエスペラント・グループが禁止され、続いて1950年にはハンガリーでも、1952年にはチェコスロバキアでも禁止された。スターリンの死後、1955年には、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、チェコスロバキア、そしてソヴィエト連邦で、1965年にはドイツ民主共和国でもまた、エスペラント運動はゆっくりと復活することになった。そこではエスペラント運動は、文化連盟の内部で組織的なものになることができた。</p>
<p>Ⅲ．エスペラントの重要性</p>
<p>１．リバタリアンの多彩さ／スペクトルのなかでの重要性</p>
<p>　リバタリアンの多彩さ／スペクトルにとってエスペラントが重要なのは、たとえば諸国家や大きなコンツェルンとは対照的に、草の根の民主主義的なグループや社会運動は、翻訳者や通訳のスタッフを維持することができないからに違いない――彼らは通例は、言語の援助はないままでやっていかなければならない。とぼしい資金は内容のある計画に使ったほうが、ずっと有意義なのである。（この認識のためにしばしば、継続的な国際的共同作業が全く育成されないという結果になる。）通訳された擬似コミュニケーションのもとでの権力関係もまた、アナキストの視点からいえば、非常に問題含みであるということが明らかになる。それに加えて、草の根の民主主義的なグループの教育上あまり優遇されなかったメンバーは、たいていは外国語の知識を十分にもっていないため、仕事の国際的な水準からほとんど完全に閉め出される。全体として、国際主義者ないし反国民／反民族主義者がかかえる完全に実際的な問題とは、どうすればさまざまな言語を話す人々の間で、妨げられない相互関係を、いつもはほとんど保証されないものを促進することができるかである。<br />
　エスペラントはこのような交流のために、まさしくアナキストたちに多くのものを提供することができるのだ。事実はしかし、ほかの運動や住民グループに比べて、アナキストたちはきっとエスペラントを、ほとんど集中的に手がけてはいない。SATの内部のリバタリアンのフラクションで、『自由人のきずな』（Liberecana Ligilo）[近似訳：“リバタリアンの結合”]という季刊の広報を出しているものがある。さまざまな言語や、異なったリバタリアンの流れからの翻訳を出版することをとおして、それはそのときどきの考えを、国際主義者たちの小さいが多様な読者層に届けることができている。<br />
　ドイツに住んでいるあるアナキストは、国際的な意志の疎通の障害に関して不平をいう：“多かれ少なかれお互いに孤立して、（わたしたちは）働きそして闘い、勝利と敗北について（わたしたちで）意見を交わすことなく、互いに支援しあったり励ましあったりしない。効果的な連帯の行動を可能にするために、同じような考えや目的をもつ人々と、地域を超えて接触を強化するということは、わたしたちの仕事の重要な構成要素であるべきだろう。”（『草の根の革命』183号、13ページ（Graswurzelrevolution Nr. 183, S. 13））。この観察は問題の核心を突いている：国際的な規模での連帯を実践し、私たちを結びつけるというわたしたちの試みは、たいていは非常に控え目な枠内にとどまっている。このことの主な原因の一つは、言語による意志の疎通の問題である。<br />
　国際的なリバタリアンの新聞や雑誌を読む人は、外国語の通信をうまく処理できないとか、通訳のある国際的な会合を組織することができないなどといった、グループの不平を比較的よく目にする。現在のところアナキストの勢力、自律的な勢力、そして草の根の労働組合の勢力による国際的な共同作業は、大部分は、たまたま持ちあわせている言語の知識の利用に基づいている。だからこういうことになる：グループのなかの誰かがXという言語を話せて、そのために、Xという言語の話される地域の人々か、その地域から来た人々との連絡を構築することができる。連絡を結ぶためのこのような方法は、自発的で有機的なものである。けれども、この偶然の原理による表面的な“実用”には、言葉に精通している“鍵となる人間”が何かの理由で永久に、もはや自由に使えなくなったときに、たちまち連絡が途絶えるという大きな弱さがある。連邦共和国で相対的に普及している英語の知識もまた、国際的な共同作業のための要求にはめったに適合しない。ここで、英語を話す能力はたいてい、長年にわたる学校での強制的な授業に基づいている。それは本質的には、アメリカ合衆国に対するドイツ連邦共和国の、親密な経済的、そしてイデオロギー的な結びつきを基礎としている。このことは、地球の全ての地域でこうなっているのではない。ともかく、英語は“ただ一つ”の国際語ではなく、最も普及している植民地的、または覇権的な言語であるにすぎない。<br />
　ドイツのエスペラント運動のなかのアナキストたちの割合は、人口一般のなかのそれに比べて多いとはいえない。彼らのエスペラント運動のなかでの位置は、全体として周縁的／マージナルなものである。一方にエスペラントを話すアナキストたちがおり、他方に非政治的あるいは“ブルジョワ的”にエスペラントを話す人々がおり、その間には双方の接触不安症があって交際が難しくなっている。リバタリアンやアナキストの多彩さ／スペクトルのなかでは、エスペラントがその外側でほとんど普及していないこの時点では、エスペラントを排他的に、あるいは非常に広範囲に使用しようという努力はなされていない。しかし、諸国家や経済的な関心による権力手段としての、ならびに社会的な選抜基準としての言語の機能、そして言語の選択についての理解が、運動のなかで十分に根づいたとき、エスペラントは追加的なコミュニケーションの手段として、実際に受容され得るのだ。</p>
<p>２．社会全体での重要性</p>
<p>　言語の障害を乗り越えて共同作業をしたり結びつきをつくろうとするとき、最も多様な関心をもつそれぞれのグループにとって、習得するのがたやすくて政治的に中立な、ある通用する言語をもつことは非常に有益だろう。ここではスペイン語、フランス語、英語、ロシア語、そして中国語のような“大きな”言語では不十分である。エスペラントを使えば、人は特定の国民的／民族的な言語にとらわれることなく、直接の接触を多方面で生み出すことができる。<br />
　エスペラントは単に、相対的に単純なコミュニケーションの手段であるだけではない、ということは強調しておくべきである。それにはいかなる“民族”にも、いかなる国家も“所属”しておらず、そのために、エスペラントを話す人々にはネイティブはほとんどいない。それゆえに、エスペラントへの所有要求を申し立てることは誰にもできない。このことは実際において、高い水準の伝達上の同権を意味する。その同権は“全知”のネイティブと、苦労させられる“よそ者”の間の摩擦に満ちた力学を打ち壊す。エスペラントはしたがって、最も高い水準の同権の相互関係を可能にし、それはエスペラントを話す多くの人々を活気づける。もしも、このことをすぐに経験的に理解できないなら、比較してみるといいかもしれない：このような状態はたとえば、ともかく英語を克服してある程度の自信をもった、ほかならぬ（たいていは教養のある）ドイツ人たちの多幸症にも似ている。彼らはそれによって、“全世界と話すことができる”という感覚をもつようになる。とにかくエスペラントはこの感覚をもたらし、そしてそれと結びつけられた、もう一歩先の具体的な可能性を――それは多くの異なったドアを開けることができる。まるで英語のほかに、同時にまたスペイン語、ロシア語、日本語、そしてほかのいくつもの言葉を学んだかのように。</p>
<p>Ⅳ．要約と批判</p>
<p>　すでに言及したように、“自然”なものだと思われているほかの言語とは対照的に、エスペラントはしばしば“人工言語”と呼ばれる。しかしながら、遅くとも国民的／民族的な国家原理の歴史的な凱旋行進のあとでは、“人工”の言語と“自然”な言語の相違はほとんど保持され得ない。というのも、それぞれの国民的／民族的な国家の言語は、強い規格化への衝動の影響のもとに置かれているからである。標準ドイツ語や標準フランス語のような諸言語はすでに何世紀も前から、法律、政令、そしてマス・メディアの影響をとおして規格化され、そして秩序づけられている。作家たち、語り手たち、そして全ての社会的な階層の創意に富んだ人々は、意識的に言語に影響を及ぼす。“自然”と“人工”の基準ははっきりしていない。そして、それにもかかわらず多くの人々は、固有の言語（あるいはまた、ほかの国民的／民族的な諸言語）が、“人工”のものと感じられ自動的に劣等であると評価されるほかのものより、自然のままであり優越しているという、部分的には民族的な偏見をいだいている。したがって、エスペラントが雑種の混成言語としておとしめられたり、下に向かって平均化する努力の隠喩として乱用されるのも、偶然ではない（“エスペラント＝ヨーロッパ（Esperanto-Europa）”[ヘルムート・コール（Helmut Kohl）]を参照のこと）。エスペラントは1887年以来、かなりの部分まで、自発的に発展しているということを強調しておかなければならない。<br />
　Claude Pinonはエスペラントに対する心理学的な反応の研究のなかで、無意識的な不安の興味深い分析を提供する：“……エスペラントはある世界で（に入って）平和を乱すものである。その世界では、それぞれの民族にある言語が割り当てられており、意志の疎通の手段が今まで、ある総体として先祖から伝えられており、各人はそれに手を触れてはならない。エスペラントが提示するのは、言語は過去の諸世紀の贈り物である必要はなく、むしろ単なる協定からも生じることができる、ということである。エスペラントにとって、正確さの基準となるのは権威との一致ではなく、むしろ伝達上の有効性であり、そしてそれは相互関係の方法を変える：ある垂直の軸があったところに、それは今やある水平の軸を置く。それによってエスペラントは、深いところにある、普段は進んで光を当てられることのない多くのものをかき混ぜる。たとえば、諸言語の階層構造はどうなるだろうか?　アイルランド語、オランダ語、フランス語、そして英語は、多くの人々の意識のなかで（……）同一の水準にはない。もしも今や、さまざまな言語を話す人々が、互いの意志の疎通のためにエスペラントを採用するとすれば、言語の階層構造はその基礎を失う。”（11ページ）<br />
　エスペラントはまた、ヨーロッパ中心的なものとして非難される。（奇妙なことに、そのように批判する人はしばしば、たとえば英語、あるいはスペイン語をもって国際的な意志の疎通のための言語とし、そのことによって面目を失う）。このような批判は本当の核をもっている：言語学的にはエスペラントは、多くの観点からいって、インド＝ヨーロッパ語族の言語から作り出されたとみられる。エスペラントはまた東ヨーロッパから始まり、そして今日も、エスペラントを話す人々の大多数は、相変わらずヨーロッパに住んでいるという事実をとおして、ある程度はヨーロッパ的な特徴を保っている。しかしエスペラントは、さまざまな（インド＝）ヨーロッパ的ではない刺激を、その発展の過程で受容している。この投稿記事のなかのさまざまな指摘が裏づけているように：たとえば、日本や中国での強い定着、その発展における“ハンガリーの時代”[2]、あるいはインド＝ヨーロッパ語族の言語としては典型的なものではない、“膠着”という単語形成上の性質など。<br />
　多くの人々は、エスペラントは支持するに値するものだと思いつつ、実用的な理由のためにエスペラントを学ぶことを断念する。彼らはそのかわりに、貴重な自由時間をある“大きな”、そして実用的であると思い込んだ言語を学ぶために役立てる。ほかのエスペラントの同調者たちは、一方で、今日の世界での英語の優位を眼前にしての無力感から、言語を習得して盛んに利用することに打ち込むのを思いとどまる。エスペラントを学びそれを実践するには、今までずっと、かなり大きな理想主義が必要だった。<br />
　エスペラントを話す人々に関しては間違った情報もある。そこで信じられているのは、彼らがエスペラントを、衝突と戦争の万能薬とみなしているということである；さらに人は、ジャーナリストたちがときには、エスペラントは死んでいるという噂を撒き散らすのに出くわす。エスペラントの未来について推測することは無意味である。強調しておくべきことは、エスペラントは存在しており、エスペラント運動は数の上では安定しているということ、そしてエスペラントは盛んに使用されている（世界的な尺度からみれば、限定されたものではあるが）ということである。アナキストたちの間でも、やはりそうである。</p>
<p>書誌<br />
｛省略します。｝</p>
<p>[1] Spomenka Štimec, Tibor Sekelj, Pioniro de la dua jarcento,Vienna1989.<br />
[2] ハンガリー語がインド＝ヨーロッパ語族の言語ではないということは知っておく価値がある。それはむしろフィン・ウラル語族に属する。それらの言語は構造上、インド＝ヨーロッパ語族の言語とは本質的に異なっている。</p>
<p>原文：<br />
<a href="http://home.arcor.de/gmickle/leag/t_anarchismus.html" target="_blank">http://home.arcor.de/gmickle/leag/t_anarchismus.html</a></p>
<p>英語版：<br />
<a href="http://home.arcor.de/gmickle/leag/t_anarchism.html" target="_blank">http://home.arcor.de/gmickle/leag/t_anarchism.html</a></p>
<p>エスペラント版：<br />
<a href="http://www.nodo50.org/esperanto/anarkiismo.htm" target="_blank">http://www.nodo50.org/esperanto/anarkiismo.htm</a></p>
<p>（文中の[ ]内は原著者、｛ ｝内は訳者です。）</p>
<p>（翻訳／I）</p>
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		<title>バルナウル（ロシア）のアナキストたちが支援を必要としている!</title>
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		<pubDate>Sun, 08 May 2011 05:54:51 +0000</pubDate>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>2011年2月1日の夜、バルナウル[アルタイ地方]のアナキストたちがグラフィッティ・アクションを起こした。そこでは、今日のロシアの政治的エリートの代表者たちを、一列の「寄生虫たち」になぞらえて嘲笑した。「法秩序機関」（本質的には政治警察）が反応するまでに、長い時間はかからなかった。2月2日、反過激主義センター[CPE／Centre E]の職員たちが、2人のアナキストたち、サンディン・セルゲイとマルイシキン・ダニイルのアパートに押し入った。</p>
<p>活動家たちは警察の部署に送られ、1昼夜以上にわたって食べ物と水もなく、眠りも与えられずに留置された。この間ずっと、仲間たちは「全てのことを認め」、同志たちについての情報を「法秩序機関」に知らせるようにと圧力（物理的なものを含む）をかけられた。その結果、サンディン・セルゲイは警察の部署の中で喘息の発作を起こした（活動家たちのうち1人の拘束についての話は、ここで読むことができる[リンク省略]）。</p>
<p>それ以降、「搜索」と呼ばれるものが行われ（搜索令状?には署名?さえなかった）、警察の職員たちが、活動家たちのいくつかの私物（その中にはコップ、マーカーペン、粘着テープ、その他の日用品が含まれる）を事実上盗み取った。</p>
<p>2月14日、レオノフ・ヴィタリーが仕事場の近くで捕まり、警察の部署に送られた。この件における3人目の容疑者である。<span id="more-874"></span></p>
<p>アクションによってもたらされた物質的な損害は些細なものであるし（広告の板が「ぼろぼろになった」ために1,000ルーブルの損害）、ヴィタリー、セルゲイそしてダニイルがそれに関与したという直接の証拠は存在しない。それにもかかわらず、反過激主義センター[CPE／Centre E]の職員たちは、ロシア連邦刑法の第213条2項（政治的な憎悪を動機とするフーリガン行為、事前の陰謀に基づいた完全な集団によるもの）の罪にあたるとして彼らを起訴した。この犯罪に対する刑罰の上限は、<strong>7</strong><strong>年間の自由の剥奪</strong>である。</p>
<p>弁護士への支払いのために、レオノフ・ヴィタリー、サンディン・セルゲイそしてマルイシキン・ダニイルはお金（合わせて120,000ルーブル）を必要としている。これは仲間たちにとっては高すぎる金額である。というのも、彼らのうち2人は学生であり、その家族は裕福ではない。</p>
<p>[以下は英語版からの訳・引用です。]</p>
<p>さらに詳しい情報を得るために、あなたは次のアドレスにメールを出すことができる。仲間たち自身があなたに答えるだろう：</p>
<p>DANIIL MALISHKIN <a href="mailto:bonk46@gmail.com">bonk46@gmail.com</a><br />
SERGEY SANDIN <a href="mailto:enottwentytwo@gmail.com">enottwentytwo@gmail.com</a><br />
VITALIY LEONOV <a href="matilto:leonow85@gmail.com">leonow85@gmail.com</a></p>
<p>ほんの1ヶ月前、彼らは子どもたちの家のためにお金を集めようと、ハードコア・コンサートを組織した。そして今度は、われわれはあなたに助けを求める。なぜなら、われわれの誰もが、弾圧を受けることがありうるのだから。</p>
<p>Transfers for Barnaul anarchists under examination:</p>
<p><em>Web Money<br />
</em>R883295499137 (RUB)<br />
Z102747368586 (USD)<br />
E329649787161 (EUR)</p>
<p><em>Yandex Money<br />
</em>41001276209779</p>
<p><strong><em>Alfa-Bank</em> (EUR)</strong></p>
<p>Beneficiaru s bank Alfa-bank, Moscow, Russia<br />
S.W.I.F.T.  ALFARUMM<br />
Beneficiaru ms. Gain Olga Aleksandrovna<br />
Account number 40817978308960001123<br />
Correspondent bank of beneficiaru s bank COMMERZBANK AG, Frankfurt am Main<br />
S.W.I.F.T.  COBADEFF<br />
Acc. With corresp / Bank № 400886894501 EUR</p>
<p><strong><em>Alfa-Bank </em>(USD)<br />
</strong>Beneficiaru s bank Alfa-bank, Moscow, Russia<br />
S.W.I.F.T.  ALFARUMM<br />
Beneficiaru ms. Gain Olga Aleksandrovna<br />
Account number 40817840308960001497<br />
Correspondent bank of beneficiaru s bank WELLS FARGO BANK N.A.<br />
S.W.I.F.T.  PNBPUS3NNYC<br />
Acc. With corresp / Bank № 2000193651652 USD</p>
<p><strong>さらにあなたは、この情報を広めることで、ダニイル、セルゲイそしてヴィタリーを助けることができる。<br />
</strong><strong>ありがとう！<br />
</strong><strong>連帯はわれわれの武器！</strong></p>
<p><strong></strong>（原文／ロシア語・英語・フランス語・ドイツ語）<br />
<a href="http://anarhobarnaul.org/barnaulskim-anarxistam-nuzhna-pomoshh/" target="_blank">http://anarhobarnaul.org/barnaulskim-anarxistam-nuzhna-pomoshh/</a></p>
<p>（グラフィッティの写真）<br />
<a href="http://anarhobarnaul.org/passajiri-2/" target="_blank">http://anarhobarnaul.org/passajiri-2/</a></p>
<p>（シベリアのインディメディア）<br />
<a href="http://imc-siberia.org/ru/node/7020" target="_blank">http://imc-siberia.org/ru/node/7020</a></p>
<p style="text-align: right;">（翻訳／I）</p>
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		<item>
		<title>炊き出しまっぷ、緊急避難場所 Meal Supply &amp; Evacuation places</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/870/</link>
		<comments>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/870/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 13 Mar 2011 07:01:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

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		<description><![CDATA[【東北】炊き出しまっぷ、緊急避難場所 Meal Supply &#38; Evacuation places Google Map 地図なし版　no map edition]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>【東北】炊き出しまっぷ、緊急避難場所 Meal Supply &amp; Evacuation places</p>
<ul>
<li><a href="http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&amp;ie=UTF8&amp;brcurrent=3%2C0x5f8a281688bb7435%3A0x5a71ac24ed513392%2C0%2C0x5f8a2815e538e245%3A0xb1632cc050d2f733&amp;msa=0&amp;msid=216614052816461214939.00049e49594f07450fe63&amp;z=8" target="_blank">Google Map</a></li>
<li><a href="http://reader.bz/feed/87/" target="_blank">地図なし版　no map edition</a></li>
</ul>
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		<item>
		<title>災害情報 on Google</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/867/</link>
		<comments>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/867/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 11 Mar 2011 15:53:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://anarchism.sanpal.co.jp/?p=867</guid>
		<description><![CDATA[Googleの東北地方太平洋沖地震に関する災害情報をまとめたページ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Googleの<a href="http://www.google.co.jp/intl/ja/crisisresponse/japanquake2011.html">東北地方太平洋沖地震に関する災害情報をまとめたページ</a>。</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>東京都内避難マップ</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/862/</link>
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		<pubDate>Fri, 11 Mar 2011 14:59:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

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		<description><![CDATA[大地震を受けて、Google マップに東京都内の避難場所一覧がつくられています。しかし東北の皆さんが心配です。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>大地震を受けて、Google マップに東京都内の<a href="http://bit.ly/tokyohinan">避難場所一覧</a>がつくられています。しかし東北の皆さんが心配です。</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>多文化学校・第4期第5回講座『朝鮮支配と大逆事件』</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/858/</link>
		<comments>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/858/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Feb 2011 15:11:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[お知らせ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://anarchism.sanpal.co.jp/?p=858</guid>
		<description><![CDATA[講師＝白仁成昭さん（「アナキズム」誌編集委員、新纂「大杉栄全集」編集委員） 明治政府にとって、蝦夷地・琉球・朝鮮を全き影響下におくことは、当初からの目標でした。というより、林子平の「海防論」以来、政治を志すものたちの間で [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>講師＝白仁成昭さん（「アナキズム」誌編集委員、新纂「大杉栄全集」編集委員）</p>
<p>明治政府にとって、蝦夷地・琉球・朝鮮を全き影響下におくことは、当初からの目標でした。というより、林子平の「海防論」以来、政治を志すものたちの間で、これは常識といってもよい、認識でした。皆さんも蝦夷地支配の開拓使・屯田兵、琉球処分、西郷を中心とする征韓論騒動などをご記憶でしょう。日清戦争の勝利を契機に、この常識を疑うものたちが、一部のキリスト者、一部の仏教者、そして新興の社会主義者の間から出てきました。常識を疑うこと、そしてそれを行動にうつすことは、たいへんなエネルギーを必要としますし、また手本があるわけではありませんから、それこそ試行錯誤の道です。大逆事件の首謀者と見なされ、死刑となった幸徳秋水を軸に、その思想変遷のあとを辿ってみようと思います。</p>
<p>★日時＝2011年2月22日（火）19時〜21時（18時30分開場）<br />
★会場＝大久保地域センター3F A会議室<br />
　<a href="http://www2.odn.ne.jp/ookubo/" target="_blank">http://www2.odn.ne.jp/ookubo/</a><br />
★参加費＝1000円<br />
★主催＝多文化学校運営委員会<br />
　<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/tabunka20xx/folder/756533.html" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/tabunka20xx/folder/756533.html</a><br />
★お問い合わせ＝多文化学校事務局<br />
　東京都新宿区大久保2-10-2-1F<br />
　TEL 03-3205-7871 FAX 03-3205-7889<br />
　Eメール：tabunka2007@yahoo.co.jp</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://anarchism.sanpal.co.jp/information/858/feed/</wfw:commentRss>
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	</item>
		<item>
		<title>インドネシアにおけるアナーキー</title>
		<link>http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/846/</link>
		<comments>http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/846/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 26 Jan 2011 01:42:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[翻訳]]></category>
		<category><![CDATA[Food Not Bombs]]></category>
		<category><![CDATA[インドネシア]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://anarchism.sanpal.co.jp/?p=846</guid>
		<description><![CDATA[このインタビューは、“Von Jakarta bis Johannesburg – Anarchismus weltweit”（Sebastian KalichaおよびGabriel Kuhn編、Unrast Verla [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>このインタビューは、“Von Jakarta bis Johannesburg – Anarchismus weltweit”（Sebastian KalichaおよびGabriel Kuhn編、Unrast Verlag社より2010年に刊行）というドイツ語の本に収録された。[この日本語訳では、ドイツ語版は参照していません。[ ]内は訳注です。]</p>
<p>　インドネシアでのアナキズムの歴史について教えてもらえますか?</p>
<p>MT：　私の友人たちから聞いた話や、私が学んできたことから知っている限りでは、インドネシアでのアナキズムは1998年頃に、パンク・ミュージックの到来とともに始まりました。当時はアナキズムといえばパンクの同義語で、そのコミュニティーの中の一部の人々が、アナーキーな思想と価値を深く掘り下げるようになりました。その時以来アナキストの論説は、パンク／ハードコアのコミュニティーの中の個々人や、コレクティブの間で発展しはじめました。そしてのちには活動家たち、学生たち、労働者たちのようなより幅広い諸集団の範囲へと、本質的に多様な背景をもつ大衆へと広がっていきました。</p>
<p>　アナキズムの論説が広がっていく間に、この話題をめぐって多くの議論が起こるようになり、アナーキーはより深く討論されたり、分析されたり批評されたりするようになりました（そしてこの流れは今日まで続いていて、より広い多様な分析の場をもつようになっています）。次の段階は、それを実践に移すことでした。たとえば、アナーキーな原則と価値（脱中心的で脱ヒエラルキー的であること、そしてコンセンサス）をもったコレクティブを形成することでした。それらのコレクティブには多くの問題があったとはいえ、このようなコレクティブのモデルは何か違ったものに見え、（政治的な領域でも非政治的な領域でも）ヒエラルキー的、中央集権的、そして権威主義的な形態や構造を通して、常に支配的であろうとするグループのモデルとは反対のものに見えたかもしれません。<span id="more-846"></span></p>
<p>　フード・ノット・ボムズ＝Food Not Bombsのような行動は、ここでのアナーキーの実践から早くに現れた直接行動の一つとみなすことができます。一方ではジンや、ニュースレター、パンフレットなど他の出版物の発行がありました。はじめは、ジンのテーマや論点は主にパンク／ハードコアに関連するものでしたが、時が経って流れが発展するにつれて、フェミニズム、アナーキーな価値、反資本主義、世界的および社会的な抵抗、アナキズムの変種、環境および動物の運動、政治的なニュース、そしてその他、のようなテーマや論点が現れるようになりました。アナーキーの前進は、インターネットのアクセスの増大する諸水準によっても助けられています。インターネットというメディアは、私たちの友人たちによって、アナキストの論説についての情報を普及させるために使われています。</p>
<p>PM：　私がまず最初に言わなければならないと思うのは、インドネシアの人々は英語という言語に慣れてはおらず、したがってインターネットが広がりはじめた当時でも、アナキズムとは何かということを理論的に理解していたのは、アナルコ・パンクの第一世代全体の中の一握りの人々にすぎなかったということです。しかし、その頃に荒れ狂っていた経済的、政治的そして社会的な状況のせいもあって、何かをしたいという衝動が形成されました。私たちは誰なのか、ということについて理解したいという渇望は、第一世代のほとんど半数をPRD（Partai Rakyat Demokratik、つまり人民民主党＝People’s Democratic Party）というレーニン主義者の政党に向かわせました。私たち自身の言語では、多くのものを参照できなかったために、私たちの選択肢は多くはありませんでした。バクーニン＝Bakunin、エマ・ゴールドマン＝Emma Goldman、ルドルフ・ロッカー＝Rudolf Rockerによって書かれた、いくつかのアナキストのパンフレットがありました。それらは何人かのアナキストの友人たちによって訳されて、広く配布されていました。しかし、それらはあまり助けにはなりませんでした。古典的な思想家が書いたことは、私たち自身の場所と時代についての私たちの理解とはほとんどつながらないからです。たとえば、その当時のインドネシアの歴史は、たった二人の大統領[スカルノとスハルト]しか経験していなかったのですから、政府の悪というものについて、私たちは本当にどのように理解することができたでしょうか?　私たちはポスト植民地の国家であり、国家とは当然に悪であるという確信とともに、するべきことがたくさんあります。</p>
<p>　2001年頃、一人また一人と燃え尽きて党を離れました。しかし私たちの多くは、することが可能なように見える唯一のこととは、まさにレーニンが言った方法であるという理解をもったままでした：一つの旗じるしの下での革命、過渡期の政府、そしてあれやこれやの騒動。私たちはまたアナキストとして、国家もやはり組織立った敵であると信じはじめたために、多くの人々から異常者として扱われました。他の人々はインドネシアという国家がより大きな権力をもち、国際的に発言力をもつことを要求しますが、私たちは国家と全ての役人たちもまた、私たちの敵であると宣言します。そして今度は、第一世代の活動と混乱の結果として、自らをアナキストであると認める第二世代が生まれました。この第二世代は急速に、アナキズムについてのより深い理解をもち、そしてレーニン主義との違いを指摘できます。あるいは私に言わせれば、この世代は第一世代の失敗から学んでいます。</p>
<p>　今日の状況はどうですか?　インドネシアでのアナキズムの主なグループと潮流は何ですか?</p>
<p>JC：　私が知る限りでは、インドネシアには優勢なグループはありません。ただいくつかのコレクティブがあり、さまざまな背景をもった個々人がいて、傾向の異なる幅のあるアナキズムを追い求めています。この方法論の違いから討論が起こることも少なくありませんが、しかしこの討論は、それにかかわるコレクティブや個々人の間に敵意をもたらしはしません。異なる背景やさまざまなアナキズムをもつこれらのコレクティブや個々人が、同じプロジェクトに参加するようなる機会さえ、いろいろあります。メーデー2007と2008はその例です。いろいろな都市のいくつかのコレクティブと個々人が、メーデー2007という行事の計画に加わることになりました。参加したコレクティブは：Affinitas（ジョグジャカルタ＝Yogyakartaのコレクティブ）、Jaringan Otonomis[自治/自律ネットワーク]（ジャカルタのコレクティブ）、Apokalips（バンドン＝Bandungのコレクティブ）そしてJaringan Autonomus Kota[都市自治/自律ネットワーク]（サラティガ＝Salatigaのコレクティブ）。これらのコレクティブとは別に、バリ＝Baliやスマラン＝Semarangなどいろいろな都市の個々人も参加し、またジャカルタのパンクのコレクティブの人々も加わりました。参加したコレクティブと個々人は、自分たちのことをJaringan Anti-Otoritarian（反権威主義ネットワーク）と名付けることにしました。メーデー2007では、行動に参加した人の数は100人余りに及び、その全てが黒い服を着ていました。その時にJaringan Anti-Otoritarianが持ち込もうとしていたメッセージとは、メーデーの再定義でした。というのも当時のメーデーとは、左派のグループと個々人が支配する行事だったからです。その日のJaringan Anti-Otoritarianの行動は成功したと言うことができます。当時は存在していないと思われていたアナキストの運動が、それから注目を浴びるようになりました。</p>
<p>　メーデー2007の後、アナキストの運動は燃え上がりはじめました。異なる都市で、いくつかの新しいグループが現れました。アナキストたちはまた、たとえば原子力発電所の建設に抗議する行動などに、より一層参加するようになりました。</p>
<p>　メーデー2008が近づいてくると、異なる都市のコレクティブと個々人の間の調整が再び活発になりました。この調整は二つの経路を通して行われました：インターネット経由と、顔と顔を合わせる集まりを通してです。この時期には参加する人の数が増大しました。残念ながらこの頃には、Apokalips（バンドンのコレクティブ）とSindikat Melawan[抵抗する組合]（サラティガのコレクティブ）が、いろいろな理由のために活動から抜けました。調整は混乱したように見えましたが、Affinitas（ジョグジャカルタのコレクティブ）やジャカルタのコレクティブ、それに異なる町の何人かの個々人たちは、それでもなんとか行動をやり抜こうとしました。前年のように、メーデー2008の行動はジャカルタで行われました。パンカーたちを含めて200人もの人々が参加しました。企業による虐待/酷使という問題に焦点を当て、バクリー・ビル＝Bakrie Buildingを行動の標的にしました。財界の権力者であり政治家であるアブリザル・バクリー＝Aburizal Bakrie[バクリー財閥のかつての総帥、メーデー2008の当時はユドヨノ政権の国民福祉担当調整相、2009年にゴルカルの党首となる]が所有するこの建物は、さまざまな企業のオフィスになっています。一部の参加者たちがバクリー・ビルを破損し、それから間もなく警察が来て鎮圧を始めました。何人かの参加者たちが力づくで逮捕されました（もっとも、そのうち何人かは、他の参加者たちによってうまく解放されました）。できる限りの抵抗をした後で、参加者たちはデモを続けましたが、あいにく警察が大人数で戻ってきました。そして行動に参加した人々は全員逮捕されました。</p>
<p>　メーデー2008以後、拡大していたアナキストの運動は衰えはじめました。いくつかのコレクティブが崩壊したりもしました。しかしそのことは、アナキズムが死んだことを意味してはいませんでした。新しいコレクティブと個々人、また、すでに長らくインドネシアのアナキストの運動に関わってきた人々が、ネットワークを作りはじめ、そしてさまざまな場所で、企業の手によって苦しめられている人々とともに行動するようになりました。今日までに少なくない数のアナキストたちが、企業や国家に対する人民の闘争に参加しています。一部のアナキストたちは、警察の部署[交番?]を攻撃したりショッピング・センターに損害を与えるなど、より好戦的な行動さえとりはじめています。</p>
<p>MT：　JCさんの答えの中で、グループのダイナミズムについての表現が多く出てきたので、私も現在の状況についてより多く答えようと思います。</p>
<p>　今日のアナキズムの状況は、まだ進行中の過程であるということができます。そして私が思うには、それは二つの分野に分けることができます。一つは論説と理論の分野であり、もう一つは実践です。</p>
<p>　論説と理論の分野では、近頃では、議論され分析される話題は資本主義から始まって、仕事、セキュリティー文化、文明化、哲学、メディア、消費者主義、宗教、ジェンダー、企業、自由な連合の形態、日々の生活とインドネシアという文脈でのアナーキーに関連することなど、ますます広い範囲に及んでいます。この議論は直接的にも（授業、映画上映、定期的な議論、グループの議論、開かれた／公的な議論）、あるいは間接的にも（メーリングリスト、Eメール、本、雑誌、パンフレット、ジン、ニュースレター、ウェブサイト、ブログ）行われています。けれども、私は現時点では企業、資本主義、社会的な抵抗、そして直接行動が、アナキストの世界で熱い話題になってきていると感じます。私は一人の女性として、女性たち、身体、セクシュアリティー、セクシュアル・オリエンテーション、そして個人的な関係性をめぐる問題が、十分に議論されていないと理解しています。そのために私は、この問題をさまざまな方法で、多様なメディア（直接行動、批評、著作、芸術作品）を通して提起しようと努めています。そして今、私は反逆する性器についての小説を準備しています。フィクションを通じて私のメッセージがより簡単に受け入れられ、理解されることを望んでいます。</p>
<p>　また最近では、女性たちによる似たような種類の著作が増えており、「サストゥラ・ルンディル＝sastra lendir[粘液の文学]」として知られてきているところです。それらは性的な自由（女性たちのセクシュアリティー、レズビアンおよびゲイ）に関するものですが、まだその背後にある関係性や価値、たとえば権力、支配、統制などには焦点が合わせられていません。</p>
<p>　実践の水準について言うなら、近頃ではますます多くの友人たちが、フード・ノット・ボムズ、スキル・シェア、街頭キャンペーン、そしてデモ（企業の虐待/酷使、警察の暴力、消費者主義、資本主義などについての）、さまざまなこと（自由な学校、読書空間、インフォショップのような）をめざすコレクティブの設立、DIY祭り、アナキストのアプローチに従って、企業による虐待/酷使を受けた人々とともに組織を作ること、そしてまたサボタージュのような、アナーキーな価値に基づいた直接行動を行っています。アナキストたちの存在とその論説および活動は、より大きなグループからますます「注目」されるようになっていると言えます。そしてもちろんそのために、とくに抵抗運動を支配する権威主義的な左派の世界（マルクス・レーニン・毛沢東・チャベス主義者の活動家のグループ）で、多くのダイナミズムと討論が発生しています。この「左派」の世界の中には、アナキストの理論、哲学および行動についての誤りと誤解が数多く存在しています。私にはそのことが理解できます。というのも、左派のグループはいつでも、イデオロギーを自らの「政治的な闘争の道具」としか見ていないからです。一方でアナキストたちは、イデオロギーとは何かとても哲学的なもので、個人的（何か私たち自身の中に内面化されたもの）なものであるために、個人的な、関係性もしくは日々の生活の中で、あるいは社会的なそして政治的な闘争の中でも、それぞれの文脈の範囲内にそれを適用することができるということを理解しています。同時に私は、アナキストの論説について知りたいというもっと広い範囲に及ぶ欲望が、他の個々人やグループから出てきていると感じます。このことは質問の増加や、アナーキーの思想に引かれるようになった友人たちから見て取ることができます。</p>
<p>　アナキストの活動に女性たちが参加することは、まだ大変少ないです。私が「闘争」を始めて以来おおよそ10年の間、このことは私にとってやっかいな問題でありつづけています。私は女の友人たちを支援し励まそうと、非常にしばしば努力してきたつもりですが、いつも途中で止まり、そして彼女たちの大部分は「監獄」に帰ることを選びます。彼女たちは結婚して家族を作ることを選ぶか、あるいは働くことを選ぶか、あるいは女性のNGOで働くことを選びます。私が住んでいる社会では、家父長制的で性差別的な価値や実践が、まだとても強い影響力をもっており、ほとんどあらゆる文脈（家族、恋人たちの関係性、友情、コミュニティー、組織、学校、仕事、社会、宗教など）の中に現れており、たぶんそのことが、状況がこうなっていることの一つの理由のようです。インドネシアでは女性たちのラディカルな運動の歴史が、ほんの少ししかありません。PKI（Partai Komunis Indonesia、インドネシア共産党）の時代を通じて、一つの運動が存在していました。それはPKIに含まれていた女性たちの組織で、グルワニ＝GERWANI（Gerakan Wanita Indonesia、インドネシア女性運動）として知られています[グルワニはPKIと密接な関係にあったが、独立した組織だったとされる]。この運動は1965年から66年に、国家がPKIの口を封じる間に破壊されました[1965年のクーデター（9月30日事件＝G30S）の後、その首謀者と見なされた共産党が徹底的に弾圧されたことを指す。十万人単位の人々が殺されたといわれるが、詳細は現在でも不明]。PKIまたはコミュニズムに関連するあらゆることは、すでにインドネシアの社会に深いトラウマを残しています。そしてこのことはまた、権力側のプロパガンダの道具や脅迫として、あらゆる形態の人民の闘争を鎮圧するために使われてきています。「おまえは1965年に起きたことが、もう一度起きてほしいとは思っていないだろうな?」　この時以来、女性たちの運動やラディカルな個人の女性たちはほとんど存在せず、近頃「女性たちの運動」と呼ばれているものは、大部分、女性たちのNGOや左派の組織に集中しています。それらは妥協を繰り返しており、国家のコンセプトを促進する立場にあります。</p>
<p>　誤解：またアナーキーを信じて、それぞれの生活の中でそれを生きている友人たちの中にも、しばしば討論や意見の違いがあり、その友人たちはまだ、自らを組織してグループを作ることがうまくできず、毎日の関係性の中で、アナキストの価値や原則についての誤解がまだ存在している（たとえばヒエラルキー、支配や性差別がまだ存在する）とも私は思います。しかし、私はまたこのことを、私たちが学ぶ過程の一部であると理解することもできます。</p>
<p>　情報や文献に接近する方法の不足：そのこととは別に、アナキストの情報源や文献はまだ非常に少なく、利用することが困難だと私は思います。利用できる情報の大部分は英語（または他の言語）のものであり、あるいはウェブサイトから入手できますが、しかしインターネットへのアクセスも、本や英語という言語へのアクセスも、まだ私たちの社会では広く行き渡ってはいません。多かれ少なかれInstitut-A InfohouseとCommunity Centerは、アナキストの文献にアクセスするための空間が必要だという、その理由のために始められました。</p>
<p>　今日のアナキストたちにインスピレーションを与える歴史上の運動が、インドネシアには何かありますか?　たとえその運動が、自らのことを「アナキスト」だと認めてはいなかったとしても。</p>
<p>JC：　いくつかの運動が存在しています。それらは決して、自らをアナキストとは認めてはいませんが、それにもかかわらず本当にインスピレーションを与えます。ブロラ＝Bloraやパティ＝Patiなどでは、アナキストたちはSedulur Sikep運動（サミン＝Saminの人々として知られる）[日本では「サミン運動」として知られる]からインスピレーションを受けています。社会的な対抗運動で、オランダの植民地だった時代から存在しているものです。けれどもこれは、かつて地域的な規模で活発になっていただけです。インドネシアの社会的かつ政治的な運動からは、インスピレーションを得られないと感じるアナキストたちもたくさんいます。さまざまな理由から一部のアナキストたちは、インドネシアでの闘争の歴史を掘り下げようと真剣に試みています。それらの闘争は、はっきりとアナキストとは自認していないものの、やはりアナキスト的な特徴をもっています。</p>
<p>MT：　私はSedulur Sikep（サミン）運動とその哲学について、より完全な形で答えてみたいと思います。</p>
<p>　Sedulur Sikepの教えは、Samin Surosentiko（1859-1914）[日本では主にサミン・スロンティコ＝Samin Surontikoとして知られる]によって広められました。それは19世紀、植民地だった時代のインドネシアで、オランダの植民地的な文化と、資本主義を拒絶するための概念として出現しました。この運動は何よりもまず、中部ジャワ州のブロラのKlopoduwurの周辺で成長しました。1890年にSedulur Sikep運動は、東部ジャワ州のボジョネゴロ＝Bojonegolo県のランドゥブラトゥン＝Randublatung郡の、森林の中の二つの村で発展し、他の村々へと急速に普及しました。その範囲はジャワ島の北岸から、北および南Kendeng山系の森林に及びました。今日の地図で言えば、東部ジャワ州と中部ジャワ州の境界に当たる地方一帯で、オランダの権力に抵抗する闘争が起こりました。オランダは当時、チーク材のプランテーション/大農園として使うために土地を押収していました。</p>
<p>　Sedulur Sikepの教えは、オランダの植民地政庁とその独断的な行為の結果として、あるいはそれへの反応として出現しました。闘争は物理的な対決の形態をとらず、かわりに、政府が人々に課している全ての規則と義務に、たとえば税金を払わないということによって、挑戦することを宣言しました。何ごとにも挑戦するという態度を通して、独自の社会的な秩序、慣習法および伝統を自主的に作りあげました。</p>
<p>　Sedulur Sikepの一つの原則は、「kulo ndiko sami, kowe aku podho」（私とあなたは平等である、だから全ての人々は平等であるかもしれない）でした。これは肌の色、民族性または宗教／信念に基づいて区別をしない平等の原則です。どんな人間であれ、他の何者かより高い位置を占めるとか、より多くの権利や義務をもつことはありません。全てのことがらにおいて、人々は独力で、あるいは自発的な協力によってものごとを選り分けるべきだとサミンは考えました。</p>
<p>　Sedulur Sikepは実践的な哲学であり、何か不可能であることを創造しようとはしませんでした。Sedulur Sikepの目標は、全ての人間のために実際的な自由をもたらすということでした。少数派よりも多数派が、何かの権利を多くもつことはなく、逆もまた同様です。一人一人の人間が、お金や支払いなしに大地の豊かさを得るという同じ権利をもち、ある人が生産するものはその人の所有物となり、そして他のどんな人も、あるいは一緒に行動する人々も、その人が同意することなしには、そのような何らかの所有物を手に入れる権利をもたず、誰でも自分が生産したものを、自分がそうしたいと思えば交換することができ、人々が何を書けるか、食べたり飲んだりできるかには、それが他の人々の権利を妨げない限り、何の制限もないと考えられます。</p>
<p>　Sedulur Sikepは土地の賃貸借を拒否し、その土地に住んでいる者なら誰でも、その土地を使うことが許されるとし、独占の形態である特許権と著作権を拒否し、税金は自発的なものでなければならないとして人々への課税を拒絶し、子供たちを公式の教育課程に送らず、自然と環境は尊敬されるべき母であると考えていたために、それを賢明に扱いました。</p>
<p>　Sedulur Sikepの教えの鍵となる点は、次のとおりです：<br />
・宗教は生活のための武器あるいは元金となりえる。Sedulur Sikepは宗教と区別されない、ということが理解されなければならない。そしてこのために、Sedulur Sikepの支持者たちは、決して宗教を否認したり憎んだりはしない。最も重要なことは、人々が自らの生活の中でどのようにふるまうかである。婚礼は政府や宗教的な機構が関与することなく、直接的に実行されていた。なぜなら支持者たちの宗教は、国家によって承認されていなかったからである。<br />
・他の人々をいらいらさせないこと、喧嘩をしないこと、羨まないこと、そして他の人々の所有物を手に入れようとしないこと。<br />
・賢明な行動を選択すること、そして傲慢にならないこと。<br />
・生きている人間は、自分自身の人生の理解を発展させなければならない。なぜなら我々の人生は、我々の魂と同じものであり、そして我々は永遠に、一つのそれだけをもっているからである。Sedulur Sikepによれば、ある人が死んだ時その魂は死なず、ただその服を脱ぐだけである。<br />
・話をする時に我々は、我々の口から出てくるものに気を配るべきである。それは正直で、他の人々に敬意を示すものでなければならない。Sedulur Sikepにとって、商業は「不誠実」という要素を含んでいるため、商業は禁止されていた。また寄付も、お金という形態のものは受け取られなかった。</p>
<p>PM：　悲しいことに、スハルトの体制のもとでは、体制側の立場に適さないと見なされた歴史的な素材は、どれもうまく排除されています。オーストラリアの歴史家であるアントン・ルーカス＝Anton Lucasは、インドネシアの独立宣言の時代[1945年以後]にインドネシアで起きた、興味深い社会的な大変動について書きました。それは私が思うには、はっきりとアナキスト的ではありませんが、上流階級に対して自律的に立ち上がっています。植民地の軍隊に対して、またインドネシア共和国に対してです。パプアの先住民の運動もまた、興味深いと私は思います。私は2000年頃に、その指導者たちの一人に会いました。そしてそれから数年後に、彼のものの見方、インドネシアの人々についての彼の批評が、平等主義の（しかし原始的な）社会とヒエラルキー的な現代社会の間の衝突について、私に思い起こさせるということを私は理解しました。私たち自身の歴史を見出すために、最初にするべきことは本当に難しい仕事ですが、それをしなければならないと私は思います。</p>
<p>　インドネシアはあまりにも巨大な国であり、多くの文化的および宗教的な伝統をもっています。インドネシアのどの地方で、そして国内のどのコミュニティーの中で、アナキストたちを見出すことができますか?</p>
<p>JC：　私はジャワ島に住んでおり、そしてこの間ずっと、私はやはりジャワ島にいるアナキストたち（と言っても、その全員を知っているわけでもありませんが）とともに、たいていは活動しています。そしてまれには、他の島々のアナキストたちと行動します（そしてこれは、ただ通信の文脈においてだけです。ある計画のためにともに働くという段階には、私たちはまだ達していません）。</p>
<p>MT：　インドネシアではジャワ島は政府、情報、教育などの「心臓」であり、そのことは国の他の地域で、これらへのアクセスが不均衡になることの原因となっています。国家は意図的にこの状態を創出し、ジャワ島の外部の人々を「ばか」なままにしておき、その土地を、国家と企業による大規模な開発の対象としています。</p>
<p>　私はジャカルタ（ジャワ島の西部）に住んでおり、以下の島々のアナキストたち（個々人またはコレクティブ）を知っています。<br />
・ジャワ島（ジャカルタ、バンドン、ジョグジャカルタ、スマラン、パティ、ブロラ、スラバヤ＝Surabaya、レンバン＝Rembang、ランドゥブラトゥン＝Randublatung、サラティガ、ポロン＝Porong）<br />
・スマトラ島（パレンバン＝Palembang、プカンバル＝Pukanbaru、メダン＝Medan、アチェ＝Aceh）<br />
・カリマンタン島（バリクパパン＝Balikpapan）<br />
・スラウェシ島（マカッサル＝Makassar、マナド＝Manado、ゴロンタロ＝Gorontalo）<br />
・バリ島<br />
とはいえ、このリストの中の人々やコレクティブの一部には、私はまだ個人的に会ったことがありません。</p>
<p>PM：　アナーキーとは基本的な人間的性格だと私は信じます。だからこの信念において、いくらかアナキストの価値を見出すことのできるコミュニティーが、いくつか存在すると私は考えます。たとえそれらのコミュニティーが、自らをアナキストとは呼ばないとしてもです。そのあるものは、宗教的な伝統さえ受け入れているかもしれません。それらは普通、主流の合法的な宗教とは異なっているものです。</p>
<p>　アナキストの運動の中で、宗教は全く何の役割ももっていないのですか?　たとえば、アナキズムとムスリムの伝統の間に、類似点は見出されていませんか?　それとも、全てのアナキストたちは反宗教なのですか?</p>
<p>JC：　私は不可知論者であるアナキストです。私のアナキストの友人たちの多くは、ほとんど私と同じ考え方をもっています。しかしたとえば、スーフィー運動からインスピレーションを受けているアナキストたちも、何人か存在します。私にとっては、宗教とは強制的でヒエラルキー的な機構であり、この理由のためにそれを拒絶するだけでなく、破壊することもやはり必要です。宗教は精神性と同じものではありません。私は反宗教であるとはいえ、理性を賛美して精神性を否定する、そのような現代の人々の一人ではありません。</p>
<p>MT：　私はアナキズムについて知る前に、家族の中での、そしてより広い社会の中での個人的な経験のために、宗教には従わないという選択をしました。</p>
<p>　何人かの友人たちから、宗教についての見方や態度のことを最初に聞いて以来、私はずっと、インドネシアでの宗教的な機構による強い支配や、統制について危機感をもっています。けれどもアナキストの世界では、多くの友人たちがまだ「宗教をもっている」か、あるいは宗教の否定について広い心をもつほどには、まだ十分に勇敢ではありません。自分の家族や宗教的な環境に、なおも敬意を示すことができるように、バランスをとろうとしているのが普通です。</p>
<p>　インドネシアはムスリムの住民たちの数が、世界で最も多い国になっているという文脈の中で、これらの価値は私たちの中へと厳格に植えつけられ、私たちに強制され、私たちに伝えられており私たちを統制しています。家族の水準から始まって、社会や国家にいたるまでです。けれども私たちの多くは、これらの点について議論してきており、宗教とは支配と統制の源泉であって、破壊されなければならないと考えています。一部のアナキストたちはこの問題をより深く掘り下げ、アナキストの視点からイスラムを批評しています。</p>
<p>PM：　アナキストの運動について話すなら、その中では、宗教は何の役割も果たしていないと言うことができます。しかし私の友人たちの一人は、ムスリムであってアナキストでもあります。そしてやはり、彼はアナキズムとムスリムの伝統との間に、何らかの類似点を探し出すことができます。彼は編集者として、ある出版社で働いていますが、そこではムスリムの本の出版をより多く手掛けています。</p>
<p>　インドネシアの全てのアナキストたちの間には、強いつながりがありますか?</p>
<p>PM：　これを「強いつながり」と呼ぶことができるかどうか、私にはわかりませんが、しかしやはり、インドネシアのほとんど全てのアナキストたち（自らをアナキストであると認めている者）は、お互いのことを知っています。</p>
<p>MT：　私はあると言うことができます。たぶん私たちは、自分たちは少数派であると感じているために、私たちの間のつながりは本当に強いです。私たちのそれぞれがお互いを支援するという感覚があり、他の友人たちの活動について知りたいという欲望が存在します。けれども、インドネシアの人々の地理的な、そして財政的な状況のために、落ち合って顔と顔を合わせてコミュニケーションをとることは本当に難しいです。私たちは普段、インターネットか電話を通して連絡をとり合います。</p>
<p>　過去数十年間にわたって、インドネシアで起きている独立闘争：東ティモール、西パプア、アチェ、そして他の地域のものについて、アナキストたちはどんな立場をとりますか?</p>
<p>PM：　私はインドネシアのどんなアナキストをも代表して話すことはできません。しかしいくつかの水準で、私はそれらの闘争を支援することができると個人的に思います。私はまた、ティモール・レステ＝Timor Leste[東ティモール]（人々はイースト・ティモールではなく、ティモール・レステと言うのを好みます）が独立した国家になり、堕落した政府ができる前に、その解放のための闘争に関わっていました。</p>
<p>MT：　インドネシアのあらゆる地域が、それぞれ固有の問題をかかえていることを理解する必要があります。だからこそアナキストたちは、何よりもまず、自分自身の場所で直面する問題に対して、常にそれにふさわしいやり方で行動を起こしたり抵抗したりするでしょう。私たちは代表者たちを関わらせるという方法を避けます（左派のグループの大部分とは対照的に）。そしてそのために常に、自分たちがたまたまいるその場所で、私たちは運動と行動を打ち立てます。と言うのはまた、アナキストの友人が、それらの地域に住んでいないためでもあります（実際にはアチェには友人が一人います。しかし彼はまた、ほんのつい最近そこに着いたばかりなので、それほど多くのことはできていません）。</p>
<p>　しかし、私たちはそれにもかかわらず、それらの場所で何が起きているのかに気づいており、国家権力と戦う全ての形態の闘争と、全ての自律的な闘争を支持しています。けれども、インドネシアから自らを解放し、新しい国を形成する（制度は同一であり、新顔たちが政府と権力を握る）ための人民の闘争をそれらの場所に見るなら、そこには矛盾が存在します。そのようなことは、たとえば東ティモールの場合に見ることができます。</p>
<p>　一方で、私たちはまた異なる視点から、とくに国家権力、軍事主義および環境の搾取という文脈から、それらの問題を議論してもいます。</p>
<p>　政治的な反対勢力の迫害に関する限り、インドネシアという国家は恐ろしい遺産をもっています。アナキストたちはこのことによって、歴史的にどのような影響を受けてきていますか?　今日の状況はどうですか?</p>
<p>JC：　今日のインドネシアは、新秩序[かつてのスハルトによる独裁体制]の時代のインドネシアとは、全く別のインドネシアだというわけでもありません。私が言いたいのはつまり、今日にあっても、権力に服従することを拒否する者たちは、まだ迫害されているということです。近頃ではインドネシアの指導者たちは、前任者たちの失敗から学んでおり、よりうまく弾圧を組織しています。新秩序の時代であれば、反対勢力は粗雑なやり方によって滅ぼされましたが、そのようなことはもうありません。今日インドネシアで権力をもつ者たちは、暴力による支配はしないという誤った印象を広め、平和とセキュリティーの幻想をとことんまで押し出しています。そのために多くの人々は、さらに政府を支持するようになり、またたとえそうでなくても、ただ指導者たちに同意しないだけになります。大部分の人々は、ヒエラルキーや権力そのものは正当だと考えています。</p>
<p>MT：　私たちのうち何人かは、すでに国家によるテロ、脅迫、襲撃および逮捕のような弾圧的な行動に、直面しなければならなくなっています。JCさんの答えを受けて言えば、私たちはこの状況への警戒を続けながら、国家が打ち出す幻想に影響されないように努力しています。私たちはまた、セキュリティーと安全の問題に対して、より多く注意を払おうと努力してもいます。そのために「セキュリティー文化」を、私たちの全ての活動の中で、重要な考察と見なされるべき何かとして打ち立てようとしはじめています。そしてこれらの状況に立ち向かうために、方法と戦略を発展させているところです。しかし、まだほんの少しの人々しかこの問題に関心をもっていない、ということを指摘するのも重要なことです。</p>
<p>PM：　近頃では政府は、実際にはまだ以前と同じことをしますが、しかしそれを円滑に行っています。政府が声明を公然と、暴力的に発表することはもうありません。しかしそのことは、問題と見なされたものを解決するために暴力を使わない、ということを意味してはいません。数ヶ月前に、リアウ＝Riau（スマトラ島）のある村が、軍のヘリコプターによって激しく爆撃されて焼かれました。その村の農民たちが、国のパーム油の会社に土地を手渡したいとは思わなかったからです。スラウェシ島では何人かの農民たちが、同じような事情で撃たれました。ジャワ島のいくつかの村々でもそうです。しかし、国家が統制しているメディアは、そのことを全く報道しませんでした。私と何人かの友人たちは、普段からひどいニュースを自主的に広報しています。</p>
<p>　国際的なつながりについてはどうですか?　東南アジアの中で、そしてより遠く離れた世界で、他のアナキストたちと強い関係をもっていますか?</p>
<p>PM：　公式にはもっていません。しかし何人かの友人たちについて言えば、やはりもっています。</p>
<p>MT：　私個人について言えば、インドネシアの外側のアナキストたちとの間にいくつかのつながりがあります。そしてInstitut-Aは、はじめから国際的なネットワークの助力と、連帯のおかげで存在することができました。私たちはさまざまなコレクティブとのつながりを作ることによって、ここでの私たちの存在と、活動についての情報を広めようと試みています。</p>
<p>　情報を分け合うこととネットワークを作ることの重要性に、私たちは気づいています。しして現実に、情報を分け合うためにどんな道具を使うことができるかを、私たちは知っています。ただ言語という制約のために、もしくは時間がないか、たくさんの資料を翻訳することに適した心的状態にないために、時々行き詰るだけです。集中的に翻訳をしていくための能力と欲望をもつ者は、私たちの中で多くはありません。</p>
<p>　インドネシアと東南アジアでのアナキズムの未来の可能性を、どのように考えていますか?</p>
<p>PM：　私は東南アジアでのアナキズムについてよく知らないため、そのことについて話すことはできません。ネットワークが重要だということは知っていますが、今のところ、私はただインドネシアにもっと焦点を当てたいと思います。というのも、するべきことが非常に数多くあるのに、本当にそれをしているインドネシアのアナキストは、ここでは非常に数少ないからです。</p>
<p>JC：　今までに起きてきたことの進行中の過程を見ると、アナキストによって満たすことのできる空間が、インドネシアにはたくさん存在すると私は思います。かつてマルクス・レーニン主義者だった少なくない数の人々が、全ての形態の権力は堕落し抑圧的になる、と考えはじめています。企業の犠牲者となってきた人々もまた、政府は常に企業の味方にしかならず、したがってただ政府に助けを求めるのではなく、何かより強い行動をとる必要があると感じはじめています。</p>
<p>MT：　私はとくに、これほど多くの問題をかかえたインドネシアという文脈の中で、非常に肯定的に考えています。ますます多くの多様な人々とグループが、自分たちの闘争の形態は行き詰ってきていると感じはじめており、アナーキーは何か、非常に論理的なものとして見られるようになっています。にもかかわらずこの全てのことは、長い過程と骨の折れる仕事を必要とするでしょう。私たちの間に、協力と堅い連帯を築き上げなければなりません。今日私たちが蒔いて撒き散らすアナーキーの種が、あらゆる場所で成長しはじめるのを見ることになるだろうと、私は信じています・・・。</p>
<p>原文（英語）：<br />
<a href="http://hidupbiasa.blogspot.com/2010/11/anarchy-in-indonesia.html" target="_blank">http://hidupbiasa.blogspot.com/2010/11/anarchy-in-indonesia.html</a></p>
<p>「Institut-A-Infohouse &#038; Community Center」のサイト（写真あり）：<br />
<a href="http://instituta.webs.com/" target="_blank">http://instituta.webs.com/</a></p>
<p>インドネシア語のアナ／反権威主義のサイト：<br />
<a href="http://anarchoi.gudbug.com/" target="_blank">http://anarchoi.gudbug.com/</a><br />
<a href="http://kontinum.org/" target="_blank">http://kontinum.org/</a><br />
<a href="http://www.katalis.tk/" target="_blank">http://www.katalis.tk/</a></p>
<p>「メーデー2008」の写真：<br />
<a href="http://news.infoshop.org/article.php?story=2008050604370826" target="_blank">http://news.infoshop.org/article.php?story=2008050604370826</a></p>
<p>（翻訳／I）</p>
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